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第3話 夫は事故で死んでいない

last update Tanggal publikasi: 2026-08-12 13:52:26

第3話 夫は事故で死んでいない

 冬真の名前で送られてきた写真を見た瞬間、私は礼拝堂にいる誰かの目と目が合うことさえ恐ろしくなり、参列者の顔をまともに見られなくなったのに、相良は私の恐怖へ同調するような慰めを口にせず、画面に触れないよう私の手首を支えながら、声だけを一段低くして周囲の警察官へ指示を飛ばした。

「礼拝堂のすべての出入口を閉めてください。ただし、犯人がこの中にいると決めつけて参列者を刺激しないようにしながら、携帯電話や鞄には勝手に触れさせず、体調の悪い方を外へ出す場合も必ず氏名と時刻を記録してください。それから鑑識は写真の画角を先に見て、澪さんの正面に置かれている物を、花一本、椅子一脚まで見落とさず調べてもらえますか」

「でも、この写真は三秒前に撮られたものですし、私の正面には誰もいなかったんですから、撮った人間は、私たちと一緒にこの礼拝堂へ閉じ込められているんですよね」

 自分の声がひどく頼りなく聞こえたことが悔しくて、私は冬真の携帯電話を抱えたまま言い直そうとしたが、相良は私を落ち着かせるための嘘だけは選ばなかった。

「その可能性は否定しませんが、この写真だけで、そうだとは言えません。人間がカメラを構えなくても写真は撮れますし、送信した人間と撮影した機械が同じ場所にある必要もないので、いま確かなのは、犯人が私たちに『礼拝堂の中にいる誰かを疑え』と命令してきたことだけです。怖がるなとは申しませんが、怖がらされた方向に、そのまま走らないでください」

 相良の言葉が終わるより先に、祭壇の右側を調べていた鑑識員が、供花の名札へ顔を寄せ、黒い喪章の結び目をピンセットで持ち上げた。百合と菊の白さを締めるための黒い布にしか見えなかったその中心から、縫い針の頭ほどのレンズが現れ、細い配線は花籠の底に隠された小型端末へつながっていた。

「この位置なら、奥様のお顔をほぼ正面から撮れます。動体検知か、外部からの遠隔操作かは解析しないと分かりませんが、少なくとも、誰かがそこに立って撮った写真ではありません」

 さらに二階の聖歌隊席の手すりからも、木目を模したシールで覆われた同型のカメラが見つかり、最初に届いた棺を見下ろす写真も、それで撮影された可能性が高いと告げられた。誰かがすぐそばに潜んでいるという恐怖が消えた代わりに、私たちは葬儀が始まる前から配置され、どんな顔で泣くのか、誰が誰を庇うのかまで観察されていたのだという、もっと粘つく気味の悪さに包まれた。

「供花の搬入記録を確認したところ、今朝七時五十二分に追加注文が入っています。依頼人は、久瀬澪さんとなっていますが、こちらに覚えはありますか」

 葬儀社の責任者から注文票を見せられた私は、そこに記載された住所も携帯電話番号も自分のものだと認めるしかなかったが、差出人の欄に入力された『久瀬家一同』という言葉を見て、首を横に振った。

「私は注文していませんし、そもそも冬真は『家族一同』だとか『社員有志』だとか、誰の気持ちなのか分からない書き方を嫌っていましたから、私が夫へ贈る花なら、たとえ人に笑われても、自分の名前だけを書きます。そんなことまで証明になるとは思いませんけれど、少なくとも、この注文をした人は私の個人情報を知っていても、私が夫に花を贈るときの気持ちまでは知らなかったんだと思います」

 相良は小さくうなずき、注文に使われた端末と決済経路を調べると約束したが、その横では、二人の制服警官が朔也の両側に立ち、証拠品袋に収められたAR‐7の小瓶とともに彼を連れ出そうとしていた。

「任意で事情を聴くだけなら、手錠をかける必要はありませんよね」

 私が思わず呼び止めると、朔也は振り返り、こんなときに庇う相手を間違えるなと言いたそうな渋い顔をした。

「澪、俺のポケットから、八年前に俺が会社を追われる原因になった薬が出てきたんだから、警察が俺を連れていくのは当然だし、君が声を上げたところで状況は良くならない。それより、いまの君は、冬真が生きていると信じたいあまりに、冬真を殺した疑いのある男まで味方に見ようとしているから、自分がどれだけ危うい場所に立っているのか、少しは分かったほうがいい」

「あなたを味方だと決めたわけではありませんし、棺を開けろと言った人が無実で、開けるなと言った人が犯人だなんて、そこまで都合よく物事を考えられるほど素直でもありません。ただ、私の署名を偽造した人間が、同じようにあなたのポケットへ薬を入れた可能性まで無視して、警察のすることだから当然だと黙っているのは嫌なんです」

 私が言い返すと、朔也は一瞬だけ困ったように目を伏せ、冬真とよく似た横顔に、冬真なら決して人前では見せなかった疲れを浮かべた。

「そういう面倒なところを、あいつは好きになったんだろうな。誰かを疑えば、その人が傷つく理由まで考えてしまうくせに、自分が傷つけられたことだけは勘定に入れないから、見ている側は腹が立つし、助けたところで礼も言われない。それでも忠告しておくけれど、俺を信じる必要はないし、むしろ疑っていればいい。ただし、『私だけを信じなさい』と親切な顔で言ってくる人間を、いちばん最後まで疑うんだ」

「それは、お義母様のことを言っているんですか。それとも、高遠さんのことまで疑えという意味ですか」

「名前まで教えたら、忠告じゃなくて誘導になるだろう。俺は、自分の無実を君に信じ込ませたいほど善良じゃないし、八年前にしたことを全部話せるほど立派でもないから、いまはそれで勘弁してくれ」

 朔也はそれ以上こちらを見ずに歩きだし、警察官とともに礼拝堂を出ていった。彼の背中を見送った私の隣で、雅世は、まるで息子の葬儀に紛れ込んだ汚れをようやく外へ運び出してもらったように、細く長い息を吐いた。

「澪さん、あの男の言葉に耳を貸してはいけません。冬真が亡くなって気が動転しているあなたへ取り入り、久瀬家の中を引っかき回したいだけなのですから、警察で必要な話を終えたら私と屋敷へ戻り、今夜は一人にならずに休みなさい」

「私を心配してくださるなら、さっきAR‐7を見たとき、なぜ『いまになって』と言ったのかを教えてください。お義母様は、あの薬を見たことがないとおっしゃいましたけれど、知らない物が現れたときに、普通はそんな言い方をしません」

「息子の棺の前で脅され、もう一人の息子のポケットから正体の分からない薬まで出てきたのですよ。人間は混乱すれば、言葉くらい間違えますし、たった一つの言い間違いで私を嘘つきに仕立てるような真似を、冬真が喜ぶと思っているのですか」

「冬真なら、自分を愛しているなら疑うなとは言わず、疑われたくないなら説明すると言う人でした。少なくとも、私が知っていた冬真は、そういう人だったはずです」

 口にした途端、『知っていた冬真』という過去形が胸の内側へ刺さり、私はそれ以上何も言えなくなったが、雅世もまた、亡くなった息子を盾にして嫁を従わせようとした自分の言葉に気づいたらしく、頬を強張らせたまま視線を逸らした。

 警察署へ移ってからの時間は、時計の針だけが律儀に進み、人の気持ちは同じ場所で何度もつまずくような、ひどく長いものになった。私は礼拝堂へ到着した時刻から、棺を開けるまでの会話、冬真からかかってきた電話の一語一句、夫婦しか知らないはずの言葉について繰り返し尋ねられ、そのたびに「眠れない夜は、雨の数を数えよう」と自分の口で言わなければならなかった。

 あれは結婚して間もない頃、私が父の夢を見て眠れなくなった夜に、冬真がカーテンも開けず、窓を打つ雨音を聞きながら言った言葉だった。雨粒なんて数えられるはずがないと私が笑うと、彼は、数え終わらないものなら朝までそばにいる口実になるだろうと答えた。その記憶まで取り調べの机へ並べて説明するうちに、誰にも触らせたくなかった夫婦の時間が、証拠として番号を振られていく気がした。

「少し休みませんか。これ以上続けると、正確に思い出そうとすること自体が負担になり、かえって記憶を歪めるかもしれません」

 相良に促されて取調室を出ると、廊下の長椅子には高遠が待っており、売店で買ったらしい温かいお茶と、私が屋敷へ置いたままにしていた薄い灰色のカーディガンを差し出した。

「雅世さんは会社へ戻りました。今日の騒ぎで株主や取引先から問い合わせが殺到していますから、冬真さんを亡くした母親に仕事をさせるのは酷だと思いますが、社長として姿を隠すわけにもいかないのでしょう。澪さんには、せめて何か口にしてから休んでほしいと伝えてくれと頼まれました」

「心配している人は、食事を勧める前に、相手の質問へ答えるものだと思っていました。でも、久瀬家では、食べさせて眠らせて、朝になれば質問したことまで忘れるのが、良いお嫁さんなのかもしれませんね」

「意地の悪い言い方をできる程度には、まだ澪さんらしさが残っていて安心しました、と返したら怒られますか」

「怒りませんけれど、高遠さんまで私らしさを決めないでください。今日一日で、夫らしさも、母親らしさも、兄らしさも、全部、誰かが自分に都合よく作った形なのではないかと思えてきたので、せめて私がどういう人間なのかくらい、自分で決めていたいんです」

 高遠はすぐには答えず、私の隣へ座ることも、正面に立って見下ろすこともせず、長椅子から少し離れた壁に肩を預けた。その距離の取り方が、冬真の死後、私の代理人として働く者の配慮なのか、それとも警戒なのか、もう私には判断できなかった。

「今日、礼拝堂で朔也さんが私のことまで疑わせるような話をしたのでしょう。彼とは学生の頃から顔を合わせていますし、久瀬家の顧問弁護士として知られたくない事情も預かってきましたから、疑おうと思えば材料はいくらでもあるはずです。ただ、私を信じてくださいと申し上げても、いまの澪さんには逆効果でしょうし、信頼というものは、要求した側が受け取れる性質のものでもありません。ですから私は、聞かれたことに、守秘義務の許す範囲で答えます」

「では、AR‐7とは何ですか。お義母様は知らないと言いましたが、高遠さんは、あの名前を聞いたときに驚かなかったですよね」

「八年前、久瀬製薬の研究部門で使われていた開発番号だということは知っています。私は当時まだ正式な顧問ではなく、父の事務所で資料整理を手伝う程度でしたが、朔也さんが研究資料と試作品を社外へ持ち出し、会長だった故・久瀬征一郎氏の判断で一族と会社から追放された案件は、後年、引き継ぎ資料で読みました」

「それなら、お義母様が知らないはずはありませんし、なぜ朔也さんは薬を持ち出したのですか」

「記録では、海外企業へ売るためだったとされていますが、本人は一貫して否定し、危険な臨床試験を止めるために証拠を持ち出したのだと主張していました。ただし、試験が実際に行われたことを裏づける資料は発見されず、持ち出された試作品の一部も回収できなかったので、会社側は彼の説明を虚偽だと結論づけています」

「回収できなかった一本が、今日、あの人のポケットから出てきたとしたら、あまりにも話がきれいすぎますね」

「私も同感ですが、きれいすぎる筋書きだから嘘だとも限りません。人は、自分が納得できないほど愚かな失敗をしますし、八年間憎み続けた相手の葬儀で、自分から疑われるような行動をする人間もいます。朔也さんを悪人と決めつけるべきではありませんが、あなたを棺から遠ざけようとしたことが、必ずしも善意だったと決めつけるべきでもありません」

 高遠の話し方は、片方へ傾きかけた天秤へ同じ重さの分銅を置き、いつまでも答えが出ないようにしているようだったが、私はそれを公平さと呼んで頼ってきた。冬真が出張で家を空けるたびに、会社の契約や資産管理の相談へ乗ってくれたのも、父の横領事件について人に知られたくない私の気持ちを守ってくれたのも高遠だったから、疑うことには、見知らぬ相手へ疑いを向けるのとは違う痛みがあった。

「父のことまで知っている高遠さんに、こんなことを尋ねたくありませんけれど、私の署名を真似られる人間、冬真の声を大量に持っている人間、葬儀の手配へ割り込める人間という条件で考えれば、あなたも外せないんです。いま腹を立ててくださったほうが、私は少し安心できるのですが」

「腹は立ちますし、悲しくもありますが、あなたにそれを見せて疑うのをやめさせたら、もっと疑われるでしょうね。私は弁護士ですから、自分が容疑者になった場合に、どんな顔が有利かくらい考えてしまいますし、その計算高さまで含めて信じろと言えるほど、厚かましくはありません」

 高遠は苦く笑い、お茶だけを長椅子へ置いて廊下の向こうへ歩いていった。その後ろ姿に謝りたくなった自分と、謝ったら負けるように感じた自分が同時にいて、私は、夫を亡くした日にまで人との関係へ勝ち負けを持ち込む自分の浅ましさを嫌いになった。

 司法解剖と携帯電話の解析について相良から連絡が来たのは、翌日の午後だった。私は一睡もできないまま警察署へ戻り、昨夜と同じ部屋で相良と向かい合ったが、机の上に置かれた資料を見ただけで、聞きたい答えと、聞きたくない答えが同時にそこにあるのだと分かった。

「最初に身元についてお伝えします。ご遺体のDNAを、冬真さんが生前に受けた人間ドックの保存検体、および雅世さんから提供された検体と照合した結果、棺に納められていた方は、久瀬冬真さん本人と判断して間違いありません」

 冬真ではない遺体を見送ろうとしていたのかもしれないという恐怖から解放されたはずなのに、私は喜ぶことも安堵することもできず、昨日から胸のどこかへ隠していた、電話の向こうで夫が生きているかもしれないという卑怯な希望を、今度こそ奪われた。

「そうですか、と答えるのが正しいんでしょうけれど、私、ほんの少しだけ、あれが冬真ではなくて、電話をかけてきたのが本物の冬真だったらいいと思っていました。棺の中に別の誰かがいることになるのに、その人の家族が私と同じ目に遭うことになるのに、自分の夫だけが生きていればいいと願ったんですから、被害者の妻みたいな顔をして座っている資格なんて、本当はないのかもしれません」

「そんな資格を決める試験はありませんし、もしあったとしても、夫に生きていてほしいと願った妻を落とすような試験なら、受ける価値はないでしょう。ただ、もう一つ、つらい結果をお話ししなければなりません」

 相良は資料を一枚めくり、冬真の左上腕に残されていた細い手術痕の写真を、私から少し遠ざけた位置へ置いた。

「ご主人の左腕には、過去の骨折を治療した際のねじ穴が残っていましたから、朔也さんの話どおり、以前はチタン製のプレートが固定されていたと考えられます。しかし、プレートは火災や衝突で失われたのではなく、死亡する四十八時間から七十二時間ほど前に、手術によって取り外されていました。傷の組織に生きている間の反応があるため、亡くなったあとに証拠を隠す目的で外されたものでもありません」

「冬真は亡くなる三日前、古傷が痛むから診てもらうと言って出かけましたけれど、手術をするなんて一言も言いませんでした。私が付き添うと言ったら、子どもでもないのに大げさだと笑って、病院の名前さえ教えなかったんです」

「そのときの会話を、できるだけ詳しく思い出していただけますか」

「朝食の途中で、私が左手を使わずにカップを持っていることへ気づき、痛むのかと聞きました。冬真は、昔入れた金具が冬になると自己主張するんだと言っていましたけれど、あの日は四月で、寒くもなかったから、私が変だと笑ったんです。そうしたら彼は、夫婦になって三年も経つのに、まだ冗談を説明させるのかと拗ねたふりをして、そのまま話を終わらせました。私、あの人が話したくないことを冗談で包む癖を知っていたのに、仕事へ遅れそうだったから、問い詰めなかったんです」

「澪さんが朝食の席で問い詰めなかったことと、ご主人が殺されたことを、同じ計算式へ入れないでください。責任があるのは、手術を利用して身元確認を混乱させ、ご主人の命を奪った人間です」

 相良は、最初の検視資料に『左上腕の骨折歴なし、固定具なし』と記載されていた部分を指で示し、その記録が原本から書き換えられていたこと、作成した医師はプレートを外した痕跡も記載したと証言していることを説明した。つまり犯人は、冬真の腕からプレートを外させただけでは足りず、その事実を知る誰かが遺体を疑うように、検視資料まで逆向きに改竄していたことになる。

「それから、血液と臓器から、AR‐7の主要成分とみられる化合物が高濃度で検出されました。薬理作用については久瀬製薬から正式な資料の提出を受けなければ断定できませんが、現段階では、急激な意識障害と呼吸抑制を起こし得る濃度で、ご主人は船の火災が起きる前に死亡、あるいは自力で動けない状態だった可能性が高いと見ています」

「では、冬真は事故で亡くなったのではなく、薬を使って殺され、それから船に乗せられたということですか」

「捜査本部は殺人および死体損壊事件として調べます。まだ船に乗せられた時点で生きていた可能性を完全には排除できませんが、少なくとも、報道されているような操船ミスによる単純な事故ではありません」

 私は泣かなかった。泣けなかったのではなく、冬真が私へ何も言わずに腕を切らせ、殺される場所まで一人で歩いていったことへ腹が立ち、その怒りが涙の出口を塞いでいた。

「あの人は、どうして私に何も話してくれなかったんでしょう。守るためだったなんて、きれいな説明は聞きたくありませんし、妻に心配をかけたくなかったという言い訳も嫌です。心配をかけないために黙って死ぬくらいなら、毎晩喧嘩をしてでも生きて帰ってきてほしかったのに、冬真は最後まで、自分が正しいと思う夫の役ばかり演じて、私がどんな妻でいたかったかは聞いてくれなかった」

「ご主人へ怒っていいと思います。死者を悪く言ってはいけないというのは、生きている人間が後ろめたさから作った決まりであって、夫婦の間にまで警察が持ち込む規則ではありませんから、答えが見つかるまで怒りを手放さないでください」

 相良が刑事らしくないことを言ったあと、冬真の携帯電話に残されていた通話記録の解析結果も示された。電話の声は、本人の過去の通話、社内動画、音声メモから切り取った素材をもとに合成された可能性が高く、棺の中の端末には遠隔操作用のアプリが仕込まれ、礼拝堂のカメラと同じ通信先を経由していたという。

「夫婦しか知らない言葉まで合成音声に言わせられたということは、冬真か私の端末から、昔の会話を聞かれていたのでしょうか」

「冬真さんのクラウドには、三年前の自宅内音声が複数保存されていました。本人が録音したのか、別の機器から自動保存されたのかを調べていますが、問題の言葉を含むデータも見つかっています。犯人は久瀬家の秘密だけでなく、ご夫婦の生活へ長期間入り込める立場だった可能性があります」

 三年前の雨の夜、自分たちしかいないと思っていた寝室に、名も知らない誰かの耳があったのだと知らされ、私は吐き気をこらえて口元を押さえた。そのとき、廊下が急に騒がしくなり、扉の向こうから、弁護士を呼べという朔也の声が聞こえた。

 相良が部屋を出たあとを追うと、取調室から出された朔也の手首には、昨日はなかった手錠がかけられていた。AR‐7の小瓶から彼の指紋が検出され、さらに海外の薬品仲介業者へ同じ開発番号の試作品を依頼した記録と、冬真へ『葬儀にしてやる』と送ったメッセージが、彼の携帯電話と自宅の端末から見つかったため、逮捕状が出たのだという。

「そのメッセージは、三か月前に冬真と電話で喧嘩した翌日、俺の端末から送られていることになっていますが、送信時刻には飛行機の中にいましたし、薬品仲介業者なんて名前も知りません。指紋だって、礼拝堂で瓶を見せられたときに、袋越しとはいえ触らされた可能性があるのに、警察は都合のいい証拠だけ先に並べて、俺が否定すれば八年前から嘘をついている男だから信用できないと言うんです」

「久瀬さん、ここで事件の内容を話すのはやめてください。弁護人には、取調べの前に連絡できるよう手配します」

 警察官に肩を押されても、朔也は足を止め、私へ顔を向けた。怒鳴って暴れれば、用意された犯人の姿へ自分から近づくと分かっているのか、声は抑えていたが、その目には、信じてもらえないことへ慣れた人間だけが持つ、諦めきれない苛立ちがあった。

「澪、俺の無実を証明してくれとは言わないし、君にそんな借りを作るのもごめんだ。ただ、雨宮修司は会社の金を横領していないし、八年前に自殺したという久瀬家の説明も、そのまま信じるな」

「どうして、ここで父の名前が出てくるんですか。あなたは父を知っていたんですか」

「知っていたどころか、君の父親が死ぬ前の夜、最後に会った久瀬家の人間は俺だ。あの人が俺へ渡そうとしたものを冬真が探していたから、君との結婚も、最初から偶然だったとは限らない」

「待ってください、それは、冬真が父のことを知っていて私へ近づいたという意味ですか。それとも、父が亡くなった理由を冬真も隠していたという意味なんですか」

 私が近づこうとすると、警察官は私と朔也の間へ腕を入れ、朔也を廊下の先へ連れていった。彼は何度も振り返るような真似をせず、ただ最後に一度だけ立ち止まり、私へ届くぎりぎりの声で言った。

「冬真の書斎を調べろ。ただし、見つけたものが冬真の字で書かれていても、それだけで冬真の真意だと決めるな。君の署名が偽造された日に、死人の筆跡だけを信用するほど馬鹿じゃないだろう」

 八年前、父は久瀬製薬の経理部で課長を務めており、研究費三億円を架空会社へ流した証拠を突きつけられた翌朝、自宅から遠く離れた河川敷で亡くなっているのを発見された。警察は遺書と会社の資料から自殺と判断し、世間は、真面目な顔をして金を盗んだ男が、発覚を恐れて逃げたのだと父を罵った。母はその半年後に病気で亡くなり、私は雨宮という姓を捨てるような気持ちで冬真と結婚したのに、その冬真が父の死を調べるために私へ近づいたのだとしたら、私が救いだと思っていた三年間まで、誰かの計画の一部だったことになる。

 私は警察署を出ると、高遠が止めるのも聞かずに久瀬家の屋敷へ戻り、冬真の書斎へ向かった。扉の前では、先に帰っていた雅世が待っており、私が父の名前を口にした途端、疲れきっていたはずの顔へ、冷たい緊張が戻った。

「警察が捜索するなら令状を持って来るでしょうけれど、あなたが感情に任せて冬真の書類を荒らすことは許しません。夫を亡くして悲しいのは分かりますが、朔也の戯言に振り回され、今度は八年前の父親の汚名まで冬真へ背負わせるつもりですか」

「私は父の汚名を冬真へ背負わせたいのではなく、父が本当に罪を犯したのか、冬真がなぜ父のことを調べていたのか、自分の目で確かめたいだけです。それに、ここは夫婦で暮らしていた家で、この部屋にある物の少なくとも一部は、冬真の妻である私が見てもよいはずです」

「妻という立場を、こういうときだけ振りかざすのですね。冬真が生きていたとき、会社を継ぐ覚悟も、久瀬家の名を守る覚悟も持とうとしなかったあなたが、遺産と秘密だけは妻の権利だと言うのですか」

「そうやって覚悟という言葉を使えば、何でも黙らせられると思わないでください。私は冬真に、会社と結婚したのではなく自分と結婚してほしいと言われたから、この家へ来たんです。もし、その言葉まで嘘だったのなら、嘘をついた息子さんではなく、信じた私のほうを責めるのは、いくらお義母様でも卑怯です」

 雅世の右手がわずかに上がり、私は頬を打たれるのだと思ったが、その手は途中で止まり、自分の喪服の襟元を直すふりをして下ろされた。

「あなたは、冬真を愛していたのではなく、自分だけは父親と違う人間だと証明してくれる夫が欲しかったのでしょう。だから、あの子に秘密があったと知った途端、愛していた記憶まで嘘だったことにして、自分が騙された被害者になろうとしているのです」

「お義母様は、冬真を愛していたのではなく、自分が間違っていなかったと証明してくれる跡継ぎが欲しかったのではありませんか。だから、息子が殺されたと聞いても、何を隠していたのかではなく、会社の名前が傷つかないかを先に心配しているんです」

 言ってはいけないことを選び抜いて投げ合うのは、家族だからなのか、家族になり損ねた他人同士だからなのか、私には分からなかった。雅世の顔から血の気が引き、私も、自分の言葉が正しかったとは思わないまま、それでも謝ることだけはできなかった。

 高遠が二人の間へ入り、警察から書斎内の現状を保つよう求められているので、何かを動かすなら自分が立ち会うと折衷案を出した。雅世は息子の机へ触れるなと念を押して去ったが、触れずに調べられる書斎など存在しないことを、彼女自身がいちばんよく分かっていたはずだった。

 冬真の机は、亡くなる前と変わらず整えられ、右端には私が誕生日に贈った万年筆が置かれていた。そのペンで何を書いたのかを想像するだけで手が止まりそうになったため、私は机から離れ、壁一面の本棚を調べた。冬真は本を大きさで揃える癖があり、一冊でも順番が違えばすぐ気づく人だったが、最上段の企業会計年鑑だけが、背表紙の年号と並びを逆にして差し込まれていた。

 それは父が亡くなった年の年鑑で、引き抜くと、厚い表紙の内側から茶色い封筒が落ちた。表には、冬真が祝いのカードや短い置き手紙で何度も見せた筆跡で、『澪へ――俺が死んだら開けてほしい』と書かれていた。

「警察へ渡す前に、ここで開けてもいいと思いますか」

 私が尋ねると、高遠は封筒を見つめたまま、弁護士としてなら触れずに提出するよう勧めるが、友人としての自分には、夫から妻へ宛てた言葉を先に読ませてやりたい気持ちもある、と答えた。どちらを選んでも責任は私に残る言い方だったが、いまは、そのずるさを責める気になれなかった。

 私は震える指で封を切ったが、中に手紙はなく、古い写真が一枚と、二つ折りのメモだけが入っていた。写真には、夜の病院らしき建物の裏口で、父と若い朔也が向かい合っている姿が写っており、父は黒い鞄を胸に抱え、朔也はその腕をつかんでいた。父が亡くなる前日の日付が印字され、背後の壁には、八年前に閉鎖された『久瀬記念医療研究棟』の文字が見えた。

 何度見ても、写真の中の男は父だった。横領の報道が出てから、私は父の写真を人に見せられなくなり、冬真にも、結婚式で使った一枚しか渡していないのに、彼は私の知らない父の最期の夜を持っていた。

 二つ折りのメモを開くと、そこにも冬真の字で、私への謝罪ではなく、短い報告のような文章が記されていた。

『雨宮修司を最後に見た久瀬家の人間は、兄さんだ。君の父親の死を調べたいなら、兄さんを信じてはいけない。俺が君と結婚した理由も、そのときに分かる』

 棺の中の電話は、朔也を信じるなと冬真の声で告げ、逮捕された朔也は、冬真の残した物を信じるなと私へ告げた。二人の兄弟は、冬真が死んだあとまで互いを嘘つきにし、その間に立たされた私は、父の腕をつかむ朔也の写真を握りしめながら、夫に愛されたと思っていた三年間の始まりに、父の死が置かれていたことを、ようやく認めなければならなかった。

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     私自身が妊娠を知るより先に、朔也は研究側から私の妊娠を知らされ、その事実を隠したまま結婚を申し込んでいた。 彼から結婚を申し込まれた日のことを、私は何度も思い出していた。冬真を亡くしたばかりで、久瀬家からは遺産と研究資料を渡すよう求められ、誰かの妻や相続人ではない自分として生き直したいと言いながら、実際には、今後の生活を一人で決めることへ怯えていた時期だった。 朔也は、愛しているから結婚してほしいと、きれいな言葉だけを並べたわけではなかった。私を守りたいという自分の欲を認め、冬真の代わりになるつもりはないが、私が一人で久瀬家と争うところを見ていることもできないと話した。その不器用さを、私は信じた。 しかし彼は、そのときすでに、私が妊娠しているという、私自身さえ知らない医療情報を持っていた。「私が妊娠していると知っていたから、結婚を申し込んだのであれば、愛していたから結婚したという説明は、あとから付けたものですか」「あとから付けたものではない。君を愛していたから、妊娠を知り、誰かに利用される前にそばへ行こうとした」「それを、愛情と言えば正当化できると思っていますか。私は、冬真を亡くした直後で、自分でも知らない子どもを妊娠していて、久瀬家から狙われる可能性がある女性だったのでしょう。あなたにとっては、守る理由が全てそろっていたのですね」「否定できない。俺は、君が一人では対処できない状況だと考え、自分が必要だと思った」

  • 夫の葬儀で、死んだはずの彼から電話がきた ~「棺を開けるな」その一言から始まる財閥復讐婚~   第50話 亡き夫と再婚相手は、私の知らないところで次の夫まで決めていました

     AUR‐011の第二管理者候補として、朔也本人の電子署名が残されていたことを知った瞬間、握られていた手の温度が、急に知らない人のものへ変わった。 私は、反射的に手を引いた。朔也は追いかけて握り直そうとはせず、膝の上へ自分の手を戻したものの、その表情には、署名の存在へ驚くより先に、思い当たる記憶を探しているような迷いがあった。「何も知らない人の顔ではありませんね」「AUR‐011の第二管理者へ同意した記憶はない。ただ、冬真から、自分が死亡した場合に、君と、将来生まれる子どもを保護するための家族信託へ参加してほしいと頼まれ、書類へ署名したことはある」「いつの話ですか」「今、表示された日付と同じなら、君と冬真が結婚して七か月ほど経ったころだ。当時の俺は海外研究部門にいて、冬真から暗号化された文書と映像通話の依頼を受けた」「その書類へ、私の名前は書かれていたのですか」「書かれていた。冬真が事故や病気で判断能力を失った場合、久瀬家と会社が君へ圧力をかけないよう、独立した家族保護人を置くという説明だった」「それなら、なぜ今まで話さなかったのですか。冬真が、あなたを私の保護人にしようとしていたことを知りながら、偶然再会したような顔で近づき、私と結婚したのですか」

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